鍋山登山
ぼくら8人は、晴れてシニアスカウト(高校1年生)となった。
シニア隊には当時、上級生がいなかったので、最年少のぼくらが最年長となった。自由気ままな、涙なし、笑いありのなんでもありの、ありあり活動が始まった。
その年の秋、連休を利用して筒賀にサイクリングキャンプ登山テニスに出かける事になった。綿密な計画を練り上げ、自転車をこぎ、テントを張り、山に登り、球を追う、2泊3日の旅が決行された。
その前に、まず、ぼくらは班旗を作った。まずその前に班名を決めた。「えびちゃりんこ隊」と名付けた。班名であるのにもかかわらず隊と名付けた。
ぼくらがカブスカウトだった頃、赤組、白組から始まり、えび茶組まであった。その、えび茶と「ちゃりんこ」を合体させて、さいごに隊を引っ付けた。当時、川口浩探検隊がはやっていて、それにあやかった。
班旗には、BEAUTIFUL SMILEと書いた。美しい笑顔。「えび」に「笑美」をかけた。不評だった。その班旗は、紆余曲折の後、十数年間、団倉庫の天井で干されていた。
ともかく、出発の日を迎えた。「ゆとりなし世代」のぼくらは、土曜日の半日授業を終えた後、自転車にまたがり筒賀を目指した。ぼくは、同じ学校の「銭湯君」と後から出発することになった。銭湯君の家は、隣り町の銭湯だった。
どこで待ち合わせたか忘れてしまったが、なんとなく合流して、なんとなく出発した。秋の陽はかなり西に傾いていたが、走り出せばなんとなくたどり着けるだろうと、なんとなく「確信」していた。地図に取りあえずなんとなくルートをひいた。出発地点からキャンプ地までつながったので、ぼくらはひと安心した。戸坂の峠を抜け、真っ赤な安芸大橋を渡り、安佐動物園を過ぎて、太田川に出るルートを選択した。まっ平らな地図で見ると、計算し尽くされた最短ルートであった。先発隊はきっと太田川に沿って迂回するルートをとるに違いないと考えたぼくら二人は、追いつけ追い越せと意気込んだ。しかし、良かったのはそこまでだった。
戸坂の峠を難なく乗り越え、下りの勢いそのままに一気に安佐動物園までの峠を駆け上がる作戦は失敗に終わった。ひいひいと九十九(つづら)折りを押して登る頃には、とっぷりと日が暮れてしまっていた。もう、おさるさんの姿は見えなかった。
先を行く銭湯君の後ろ姿が、急に見えなくなった。そこから太田川まで一気に押し流されるようにぼくらは下った。爽快だった。
T字路を左折し、太田川を北上した。坦々とした上りが続いた。右岸側は、行き交う車もほとんどなく、ただ、シャーシャーとタイヤとダイナモの擦れる音だけが響いた。その頃はまだ、「らくらくライト」ではなかった。ただひたすら、シャーシャー、タンタン、リンリン、カンカン、ランランとペダルをこぎ続けた。
「桃太郎」が見えた。「桃太郎」が見えた。第一の目的地、ドライブイン「桃太郎」だ。ここで、先発隊と合流の予定だった。追い越し、一泡ふかせる目論見だったが、残念ながら人影が見えた。
「桃太郎」は古びたドライブインだった。自動販売機の光だけが煌々(こうこう)としていた。あやしげな車が停まっていた。「よいこは、おうちでねんねの時間」をとっくに過ぎていた。ちょっと大人の気分で日清のカップヌードルをすすった。
ここで、太田川に別れを告げ、峠みちに入った。九十九(つづら)を超える、「百折り」の峠みちだった。広島では、ちょっと有名な棚田地帯だった。ある者は颯爽と、ある者はぜいぜいと駆け上り、そしてある者は、とぼとぼと押して上った。実際は、ほとんど、だらだらとだべりながら押して上った。
気が付くと峠の頂上に着いていた。暗闇(くらやみ)に光がさした。ライトの光だけをたよりに、一気に下った。豆電球の球が飛びそうだった。
集落が見えてきた。目指すキャンプ地もあと少しだ。急に足取りが軽くなった。今ならもう一往復ぐらい朝飯前だ。しかし、眠たくなってきた。やはり、まずは朝ごはんだ。と、支離滅裂になってきた。
そのうちに、いつの間にか到着した。さして達成感も安堵感も感動もなく、あっさりとした幕引きだった。周りがどこなのか暗くてよく分からなかった。もはや、どこでもなんでもよかった。空き地にテントを張り、潜り込んだ。
翌日、東の空から太陽が昇った。だらだらとテントから抜け出した。空き地だと思っていたところは、やはり空き地だった。荷物をまとめ、キャンプ地に向かった。歩いてすぐの山裾のちょっとした平地にテントを張った。小川が流れていた。飲み水は、ポリタンクに入れ運んだ。水汲みは下っ端の仕事と決まっていたが、ぼくらはみんな同じ下っ端であり、大将だった。
朝食を摂り、昼食用のおにぎりをにぎにぎと、にぎり、登山出発の準備をした。登山と言うといかにも格好が良いが、ちょっと裏山にシバ刈りにといった感じだった。
鍋山という無名の山だった。いわゆる、杉林の山だった。登山口は、キャンプ地の奥、すぐのところだった。登山口といっても、ぼくらが勝手に決めた入口で、か細い道がなんとなく奥へ、奥へ、上へ、上へと続いているように見えた。とにかく、この一番高いところが頂上に違いないと、そこを目指した。地図は持っていたが、カバンの底に大切にしまってあった。
中腹あたりにさしかかった所で、先頭が立ち止った。クマの爪あとだった。本当は、だれも本物を見たことはなかったが、皆、いかにもいかにも、ごもっともと、クマの話で盛り上がった。皆、気分は金太郎だった。怖いもの知らずだった。ぼくらにとってクマといえば、テディベアだった。
途中、道は広くなったり、狭くなったり、急になったり、ゆるくなったりした。「やぶこぎ」状態のところも一部あったが、とにかく上をめざした。振り返ることはなかった。
尾根に出た。右手のゆるやかな上りを行けば、もう頂上だと直感した。そして、まもなく、少し遠くに白い小さな小屋を発見した。それは、近づいても、ちいさいままだった。百葉箱だった。その近くで三角点も発見した。班旗を振り、雄叫びをあげた。
ぼくらは、再会を約束し、班旗を百葉箱の陰に隠した。
休憩の後、来た道を下山することにした。来た道なので、だれもが簡単に帰る事ができると思っていた。大きな、おおきな、おお間違いだった。この後、お、お、お、と、何度も叫ぶことになった。
出発してすぐに、道に迷った。尾根分かれを見失った。一度も振り返らずに登って来たせいで、どこも同じ景色に見えた。いつの間にか、谷筋の急斜面に立っていた。足元は、ガラガラ石で埋め尽くされていた。歩く度に、ガラガラ石が、がらがらと音をたてて転がり落ちた。落ち始めると、ガラガラ連鎖をひきおこし、巨大ガラガラ落石となった。
ガラガラ落石が、先頭を行く銭湯君の肩をかすめた。誰も先頭を歩かなくなった。横一列、Gメン’75隊形で進んだ。
登ったり、降りたりを何度も繰り返した。戻るに戻れない、進むに進めないところを、打ち出されたパチンコ玉のように右に左に行ったり来たりした。
舗装された道路が見えた。助かったと誰もがホッとした。キャンプ場からかなり西にそれていた。なぜだか、左に行けばキャンプ場に行きつけると直感的に分かった。足取り軽く、スキップでキャンプ場に向かった。
陽はかなり傾いていた。が、ぼくらはテニス大会を予定通り決行することにした。キャンプ場から自転車で近くの町営コートに移動した。
テニス大会といっても、軟式「草テニス」だった。軟式だけに、ルールも非公式だった。ボールは、前に後ろに、おもしろいように飛んで行った。いかに遠くに飛ばせるかが勝負の分かれめだった。
ゆうやけ、小焼けで日が暮れた。
キャンプ場に帰り、何かしら食べ、そして眠って、朝が来た。
最終日。広島までサイクリングだ。
最初の峠は大変だったが、そこから先は楽勝だった。1回転で10回転分進んだ。太田川沿いの緩やかな下り坂が延々と続いた。秋の陽が気持ちよかった。ぽかぽか気分で走り抜けた。あっと言う間に本部に着いた。
「なかよしの輪」をして解散した。
翌々年、第2次鍋山登山隊が結成された。あの班旗を持ち帰ることが、最大、唯一の使命だった。
長老によって作成された「秘宝の地図」が託された。宝の場所には、「ココです。」と書いてあった。子供のお絵かきだった。半分は冗談で、半分は本気だった。
しかし、意外にもそれは、あっさりと、百葉箱の陰から発見された。BEAUTIFUL SMILEの文字がはっきり見えた。
「タロ」「ジロ」と抱き寄せ、頬ずりをした。気分は、南極探検隊だった。そして、大切に持ち帰った。
十数年後、倉庫整理をした時に、天井から吊るされた班旗を発見した。もはや、あの頃の「ときめき」はなかった。少しためらったが、「こんまり」した。
鍋山登山はその後、第3次まで行われ、短い間ではあったが、シニア隊上進への登竜門となった。
大田サイクリングキャンプ
大田サイクリングキャンプは、シニア隊の突発的恒例行事だった。
広島東照宮の本部から島根県大田市に至る、往復240kmの山あり谷ありの大冒険だ!!。
「そろそろ、どうでしょう?」
五月晴れのある日、ぼくらは思った。
「やりますか」「いきますか」「そうしますか」
「いつですか」「夏ですか」「海ですか」
「いいですね」「そうですね」
「日本海ですね」
「待ってろ!! いかそーめん!!」
全員一致で決まった。
計画を立てた。恒例行事なので恒例に従った。日程は、夏休みの5日間とした。太田川を北上し、191号線から261号線に入り、川本町から石見銀山街道を経て、日本海へ出るルートを踏襲し踏破することにした。すべて、トントン手拍子・足拍子に進んだ。
出発は朝の4時だった。ぼくは、3時に起き、3時半に家を出て集合場所に向かった。カバンには、朝と昼用のおにぎりが入っていた。約120kmの道のりを平均時速10kmで12時間、夕方4時に到着の予定だった。近いのか、遠いのか、速いのか、遅いのか誰にも分からなかった。ともかく、出発した。少し眠たかった。
太田川に沿って、可部の町までの緩やかな坂道を上った。遠足気分だった。軽快にタッタ、タラーンと進んだ。
東の空が明るくなってきた。幕の内トンネルの少し手前の喫茶店で朝食を食べた。ゆったりと椅子に腰かけ、新聞を読み、コーヒーの香りに包まれながら半熟卵付きモーニングAセット(480円)を食べる。そんな空想をしながら、開店前の駐車場でおにぎりにかじりついた。中国山地越えを目の前にして、まだ元気十分、にこにこ顔だった。
幕の内トンネルを抜け、「ひゅるる、ひゅるる」と坂を下り、その勢いで緩やかに続く坂道を駆けぬけた。
気温が少しずつ上がってきた。日差しも「きらきら」から「ぎらぎら」に変わってきた。千代田までの急な坂道が、ぼくらの前に立ちはだかった。それは、大蛇のようにくねくねとSの字にとぐろを巻いて待ち構えていた。一気に、高度を上げた。太陽に近づくにつれ、「ぎらぎら」は「ギラギラ、ギラギラ、ギンギラギン」に変わった。遠足気分は、谷間に消えていった。自転車を押したり引いたりして、ともかく進んだ。途中、「ぽつん」と、まむしドリンクの自動販売機があった。
やっとこ、さっとこ、峠の頂上に着いた。「偉大なる第一歩」を踏みしめた。そこからは、長い下りだった。ぼくらは、無重力空間に打ち出された宇宙飛行士のように、ホップ・ステップ・ジャンプと飛んで行った。翼があれば本当に飛び立つことが出来そうだった。
しかし、おたのしみの時はあっという間に過ぎ去った。
千代田の町を過ぎ、しばらく行くと、上り坂が再び待ち構えていた。「もう、結構です。」「ハイハイ、分かりました。」「どうぞ、好きにして下さい。」と半分やけになりながら上った。ジリジリ光線が頭の上から降りそそぎ、アスファルトの道はぐにゃっと、とろけそうだった。とろとろと、とろけながらも、トコトコ、ト、トロトロ、ト、進んだ。
日本中の上り坂と、下り坂ではどちらが長いかという話になった。下らない話題だった。上りが多いに決まっていると全員が答えた。当然至極と「激しく同意」した。
トンネルが見えた。県境のトンネルだ。トンネルを抜けるとそこは下り坂だった。薄暗い鳥かごから放たれたハトのように、ぼくらは飛び立った。
県境を越えたことで、「着いたも同然」と舞い上がってしまったが、ここから先が長かった。下りの先には、緩やかな上り、そして、下り、上り、下り、上り、のぼり、のぼり、下り、上りと連なってやってきた。暑さとともに、上りと下りの区別がつかなくなってきた。ただ、ただ、ペダルを、ただ踏んだ。
途中、「ねこ湯」の看板があった。どんな温泉なのか、果たして温泉なのか「ニャン」なのか、かなり興味をそそられたが、戸を叩く勇気はなかった。
海に向かって走っているにもかかわらず、山の奥へ、奥へと進んでいるような気がした。
石見銀山が見えた。そこは、砂漠の中のオアシスだった。冷房の効いた案内所で休んだ。「金」には興味があったが、銀山には興味がなかった。
その先の五百羅漢にも立ち寄った。その恐ろしげな表情を見て、ぼくらは、泣くほど子供ではなかったが、悟るほど大人でもなかった。洞内に漂う、ひんやりとした冷気に、ただ、ただ「地獄で仏」を感じていた。
「そろそろ行きますか。」僕らはまた走りだした。日差しは、より一層強くなってきた。
山が開けた。田園の匂いと、人の気配がしてきた。
川が見えた。この先が目的の静間だ。国道9号線を横切った。最後の上りだ。いっきに駆け上がった。頂上に到着した。眼下に日本海が広がっていた。切り立った岩肌に打ち寄せる波音が、遅れて聞こえてきた。『これが、日本海だ!!』。「ウォーオ!! !!」と叫んだ。「こだま」は、返ってこなかった。向こうの向こうのその向こうまで海だった。
島根県大田市静間町魚津。海の上の高台に、そのお寺はあった。ちいさな集落がその下に張り付いていた。門を叩いた。本堂の扉が開き、住職がいつものように迎え入れて下さった。本堂の階段に腰かけ、スイカとアイスキャンデイを頬ばった。浄土に昇る気持ちだった。極楽だった。
時刻は2時過ぎだった。キャンプ地は、寺の右下に広がる近藤ヶ浜だった。そこは、ハマナスの自生西限地だった。キャンプ用具を積んだ車が到着した。駐車場から、キャンプ地まで荷物を担いで下りた。背丈ほどの草が生い茂る細い急な道だった。炎天下のなか一人当たり3~4往復した。テントのポールもペグも鉄製で恐ろしく重たかった。水は、お寺から18ℓのポリタンクに入れて背負子で運んだ。
何とか設営を終え、眠った。とにかく眠たかった。
翌日、日本海に飛び込んだ。瀬戸内そだちのぼくらには、未体験の大波、小波だった。韓国製のプラスチック容器が漂流していた。油断すると、韓国まで流されて行きそうだった。
昼から、車に乗って、仁摩のサンドミュージアムに行った。超ビックな砂時計にビックリした。ここ、仁摩の琴ヶ浜は「鳴り砂」で有名だった。砂時計には、「秋田産」の鳴り砂が使われていた。鳴り砂つながりでギリギリOKなのか??……少し、疑問が残った。
帰り道、大田市のスーパーに立ち寄った。今夜は、あの『いかそーめん』だ。あの「いかそーめん」と言っても、本当はどの「いかそーめん」なのか知らなかった。当時、高校生だったぼくは、あの『いかそーめん』なるものを知らなかった。「イカ」なのか「ソーメン」なのかも分からないまま、広島からはるばるやって来てしまった。いまさら聞くわけにもいかない。覚(さと)られぬよう、なるべく先頭を歩かないようにポジション取りをした。運良く、誰かが、先に発見した。
「ムム、これがあの『いかそーめん』なるものか‼。」
夜には、遠く漁火(いさりび)が見えた。
3日目は、浜辺で遊んで過ごした。
夕方、お寺の風呂に入らせてもらった。海側が一面ガラス張りで、湯船から眼下に日本海が一望できた。果てしない広がりだった。トビが、目の前を舞っていた。
夜から雨になった。雷の音と、稲光が見えた。風も出てきた。海に反射するひかりは、幻想的だった。
翌朝、雨はあがっていた。砂浜の砂が波で大きくえぐられ、波型にウエイブウエイブしていた。漂流物が打ち上げられていた。あと数十メートルで、ぼくらのテントも漂流するところだった。
4日目。日本海ともお別れの時が来た。帰路は、大田の市街地を抜け、石見一宮物部神社から三瓶山を通り川本方面に、再び261号線に出て、断魚渓で1泊、翌日広島に向け出発の予定だった。
1名リタイヤした。飲みすぎならぬ漕ぎ過ぎで、二日酔いならぬ自転車酔いでダウンした。昨晩の深漕ぎ(ふかこぎ)が原因のようだった。自転車は、伴走車の屋根に逆立ちに取り付けられた。
石見一宮物部神社は、由緒ある折り目正しい神社だった。基本的に神社とは、そのような所だが、いかにも「石見一宮物部神社」といった感じだった。清められ、ちょっと綺麗になったような気がした。
神社の横から三瓶山への分かれ道に入った。長い上り坂が続いた。しかし、慣れてきたのか、感覚が麻痺してきたのか、あるいは神のご加護か、意外にも楽に進んだ。高原の向こうに三瓶山が見えた。暑さより、すがすがしさが、まさっていた。馬に揺られるかのように、ぼくらは駆け抜けた。人馬一体となった。
江の川を下り、川本町を経て断魚渓まであっと言う間だった。深篠川キャンプ場にテントを張った。夕立が来た。ちょうどいいシャワーだった。小川が流れていた。風呂代わりに水浴びをした。
最終日、全員そろって、広島に向け出発した。ここからは、来た道だった。行きと同じく、上り下りの連続だったが、上りが少し短くなったような気がした。『上りロング説』は、間違いかもしれないと思ったが口には出さなかった。
本部に無事到着した。東照宮の回廊で、大の字になってしばらく眠った。